スプーンを延ばす

スプーン曲げをする人は、スプーンの細い部分をこすりながら「柔らかくなってきました」と言う。

自分はスプーンを曲げたことがないから分からないけど、そういうものなのだろうな、と思う。金属をこすりながら強く念じる。やがてその部分は熱を帯び、柔らかくなって、思うままに形を変える。

…ということは、そこをグッ!っと押したら平べったくなるんじゃないだろうか。

金属には叩くと薄く広がる「展性」、引っ張ると細く伸びる「延性」という性質がある。あの細い部分を柔らかくして、グッ、グッって延ばしていけば、一回りでっかい薄いスプーンができたっていい。

なんならフォークの先端を柔らかくして、グッって押して平べったくしたら、フォークをスプーンにできるはずだ。

スプーン曲げのネクストステージだ。最初は薄く延びるだけで歓声があがっていたが、やがて細かい細工をほどこす能力者も現れる。スプーンは曲げる時代から、加工する時代へ。

そのうち「制作時間30時間」みたいな大作ができて、もう超能力じゃなくて金属加工の人として評価されたりする。それでヒルナンデスとかでる。

陸上選手になったらスタート前に「ゲッツ!」ってやってしまいそう

テレビで世界陸上をやっている。

100mとか200mの選手が走る前に、カメラが選手ひとりひとりを映す時間がある。わざわざ選手の正面までカメラが行って、何秒か映して、次の選手に行く。映されているあいだ、選手はガッツポーズしたり、カメラを指差したり、映っているのはわかってるけど俺は集中してるからみたいな顔して、それぞれアピールしている。

こういうの、陸上以外であまり見ない気がする。これから本番だというのに、よくアピールする余裕があるなぁ……と思う。だって絶対緊張するでしょう。それまでめっちゃ練習してきて、あんな晴れ舞台に出て、テレビでよその国の知らん人が見てる。そんな状況でアピールできるのも一流選手の証なのだろうか。

逆に自分だったらと思うと怖い。無表情で立っているのも気まずいし、かといって緊張しているのを他の選手に知られたくない。とはいえ「いえ〜い」ってふざけるのも怒られそう。変顔もダメだろう。うっかり「ゲッツ!」とかやってネットニュースになるのも困る。

順番も怖い。自分が8コースにいて、1コースから順々にカメラが回ってくる。あのパターンも、このパターンもみんなやられ尽くしたあとに自分の番が来る。これから走ることに集中したいのに、頭の中は「ゲッツはもうやられちゃったから……」みたいな迷いでいっぱい。なんとかやり過ごしても「やっぱりさっきの違ったな……」って反省しているうちにスタートに出遅れそう。もうだめだ。

走る前から勝負は既に始まっている。あとラヴィット!が1週間お休みなので寂しい。

忍者村の人かと思ったらメルヘン村の人

「忍者村」を運営する会社が、「メルヘン村」を運営する会社を買収したらしい。

佐賀)忍者村がメルヘン村を買収 嬉野温泉と武雄温泉:朝日新聞デジタル

佐賀県嬉野市の「佐賀元祖忍者村 肥前夢街道」を運営する株式会社「マール」(光岡勝社長)は13日、武雄市の「森の遊園地 武雄・嬉野メルヘン村」を運営する新肥前観光(竹内亮社長)の株式を7月1日までに100%取得して子会社にすると発表した。

もちろん中身は企業同士の経営のあれやこれやだけど、「忍者村がメルヘン村を買収」という文字だけ見ると、メルヘン村でキャッキャうふふしていたところに、ひっそりと忍びの者が手を回していた、みたいな絵がどうしても浮かんでしまう。ピンク色の世界に墨汁を一滴垂らしたような不穏さがある。

さらに記事にはこうある。

今回の買収後も営業は続ける。メルヘン村の竹内社長は退任し、忍者村の光岡社長が兼務する。メルヘン村の従業員が忍者村で働くなど行き来をして、コスト削減や人材確保につなげるという。

メルヘン村の従業員が忍者村で働くのだ。忍者村の人かと思ったら、その正体はメルヘン村の人なのである。これではどっちが忍者かわからない。

メルヘン村の村民たちの中には、今回の買収に忸怩たるものを感じている人もいるだろう。いずれ忍者村からメルヘン村を取り返そうと、裏で決起しているかもしれない。

まずは忍者村の従業員として働き、中枢部に食い込むなどして、弱みを探るフェーズとなるだろう。そこにはメルヘンなど欠片も無い。現実あるのみ。

なおメルヘン村には観覧車やコースターなどがあり、「リスやウサギなど動物と触れ合えるコーナーが人気」だそう。忍者村の資本が入ったら「観覧車から脱出できるようにしろ」「リスに文書を持たせ仲間に届けるコーナーはどうだ」とか提案されるのだろうか。なんかそれはそれで興味はあるけれども。

「直筆原稿が見つかった」はこれからどうなるのか

たまに「作家の直筆原稿が見つかった」というニュースを見かける。

古い家を整理していたら出てきたとか、蔵を掃除していたら出てきたとか、そんな感じで原稿用紙の束が見つかる。そこには未発表の原稿だったりとか、創作のメモだったりとか、誰々に宛てた手紙とかがあって、その作家がどんな思索の中にあったのかなどが明らかになる。

でもPCで原稿を書くことが主流になった今、どんどんそんな機会はなくなるだろう。直筆原稿なんてないもの。メモが見つかったとしても「この時代からPCで文字を書くことが主流になり、漢字を忘れていく様子がうかがえます」と言われるだろう。

PCに残っていたファイルなんかはすぐ見つかるだろうし、あとになって見つかるものってなんだろう、と考えると、これはクラウドじゃないか。

なんらかの新しいサービスが出る、それはメモを記録したり整理したりするのに便利なやつで、最初はおぉ確かに便利かもと使う。でも段々面倒になって使わなくなる。それを繰り返す。すると、「ちょっとだけ使ったサービス」があちこちに残る。

大作家の死後しばらくして、在野の研究家が「このアカウントはあの先生が使っていたものではないか」と発見する。それをきっかけに、同じアカウント名であちこちのサービスが使われていたことがわかる。

Evernoteに大量のメモが残っていたことが分かり大騒ぎになる。WorkFlowlyであの名作のアウトラインを考えていたのが分かる。違う名前でnoteをしばらく続けていたもののしっくり来てない様子が分かる。Notionにちょっと手を出してやめたのが分かる。

ちなみにTwitterの裏垢はとっくの昔に見つかってスクショが出回っている。たいへんだ。

そういえばワープロで原稿を書いていたころの作家だとどうなるんだろう。「書院のフロッピーディスクが見つかった」とかになるんだろうか。読み込めるといいけど。

シュレディンガーの軽部

『めざましテレビ』に、めざましテレビを知らなかった新人アナが新たに加入するというニュースを見た。

なんでも、その新人アナの地元・青森県では『めざましテレビ』が放送されておらず、採用面接の時にはじめて軽部アナの存在を知ったほどだという。番組のチーフプロデューサーは「逆に面白い」と起用したそうだ。「なんでこんなタイミングでジャンケンするんですか?」とか思うだろうか。まるで異世界転生のような人事である。

で、ここで気になったのは「軽部アナの存在を知らなかった」ことだ。

青森県ではフジテレビ系列が映らないらしく、となればフジの局アナを知らないのも仕方ないだろう。ただ、私たちも果たして『めざましテレビ』以外で軽部アナを見るだろうか。見ないんじゃないか。そりゃ知らなくてもしょうがないのではないか。

私たちは『めざましテレビ』を見れば、そこに軽部アナの存在を感じることができる。朝方テレビをつけるまで、軽部アナはこの世に存在しているのかわからないと言い換えてもいいだろう。

つまり、テレビという箱の中の軽部アナは、存在している状態としていない状態が重なりあって存在しているのではないか。

それはまるであの猫のように…と思ったところで「今日のわんこ」と共に『めざましテレビ』は終わり、軽部アナの存在は再び宙に浮く。

鳥人間(らしさを総合的に評価する)コンテスト

今日『鳥人間コンテスト』があったのに見逃してしまった。どへくらい飛んだのだろう。子どものころ見た鳥人間コンテストはまだ「仮装部門」みたいなのがあって、面白い格好で高いところから飛ぶ人たちをしばらく見る時間があったりしたものだけど、今や琵琶湖の端に行って帰ってきて折り返してと異次元の世界である。関空から飛ばせてもらったら小豆島に着くんじゃないだろうか。

それにしても「鳥人間コンテスト」である。字面そのままを受け取れば「いかに鳥人間であるかを競うコンテスト」だろう。となると、テレビの「鳥人間コンテスト」は鳥について「飛ぶ」という一面しか見ていない。「鳥人間らしさ」を競うなら、もっと総合的な評価が必要ではないか。

鳥人間らしさを五角形のレーダーチャートで表すとするなら、「飛距離」は入るだろう。あとは「見た目」も入れておきたい。鳥っぽければ鳥っぽいほどいい。「鳴き声」も入れておこう。内面的な評価軸もほしい。「鳥目」とか。鳥は3歩歩くと忘れるというから「忘れっぽさ」も入れておこうか。

でも本当に忘れっぽい人がコンテスト会場に集ったら大変だ。「なぜ私は鳥の格好をして琵琶湖に…?」ってパニックになるだろう。でもパニックになればなるほど「忘れっぽさ」のポイントが高まっていく。ダントツの忘れっぽさで「鳥人間」の栄誉に輝いた人は、表彰台の上で首を傾げる。それがまた鳥っぽさを誘う。忘れっぽいからまた次の年もエントリーしちゃう。なんなんだこのコンテストは。

ニュース速報から鼓が

ニュース速報の音が聞こえてハッとテレビを振り返る。ウィルスが猛威をふるうこのご時世、いつなんどき何があるかわからない。そんな感じで神経研ぎ澄ませてステイホームしてきた昨今なのだけど、ここ1ヶ月そのニュース速報に振り回されている。オリンピックとパラリンピックです。

速報が入ったぞ…!と箸を運ぶ手を止め、じっとテレビを見つめると、誰かがメダルを取りましたよというニュース。めでたい。めでたいのだろうけど、心の中には半押しになったエマージェンシーのスイッチがあるのだ。速報にハラハラするのはこっちの勝手かもしれないが、かといって「またメダルでしょ」と速報を狼少年するわけにもいかない。「メダルを取ったぞ〜」と走ってくる少年。ちょっとかわいいけどもだ。

じゃぁこうしてみてはどうだろう。ニュースの内容によって速報の音を変えるのだ。事件事故災害などは今まで通りでいい。メダルを取ったとかめでたいニュースなら鼓をひとつふたつ鳴らす感じでどうか。テレビから急にポポポン!と鳴ったらめでたい感じがするんじゃないか。世界遺産に認定されたらポポポン!ノーベル賞を受賞したらポポポン!GDPが回復したらポポポン!景気がいい。

ただ問題なのは何をもって「めでたいニュース」とするかどうかだ。衆議院解散とか「えらいこっちゃ」の人もいればポポポン!の人もいるだろう。そういえばテレビに出る気象予報士は「いい天気」とは言わないらしい。農家をはじめ雨を欲している人もいるので、晴れ=いい天気ではないからだそうだ。そうなると金メダルを取ったニュースも全てポポポン!とはいかないかもしれない。金メダルを噛みたいほど憎い人もいるかもしれない。

もういっそ音がなくていいかもしれない。テレビの上を無音で右から左に流れてくれたらいい。長い文章は疲れるから短文にまとめてほしい。見逃すと困るから同じもの2回流してほしい。そういうのどっかで見た気がする。「まもなく三河安城」とかも流れていた気がする。

甘やかす概念だけ帰省

子どもたちの夏休みもいよいよ大詰め、というか夏休み自体は先週でとっくに終わっており、新型コロナ感染拡大のために8月いっぱい休校になってしまったのだった。夏のロスタイム。

しかしこの夏はほぼ家にいて、去年に引き続き帰省もしなかった。家族全員インドア派なので家時間をエンジョイして暮らしているものの、こんなに夏を持て余すこともない。ちょっとこれは景気づけにイベントを設けようと、「コンビニで好きなものどれだけ買ってもいい大会」を開いた。

客が少ないであろうお昼前、子どもたちと近所のコンビニに行き、食べたいものを片っ端からカゴにインしてよしとした。アイスも生ハムも全部ありである。「コーラ飲みたい」イン!「これ美味しそう」イン!「へぇジョブチューンで紹介されたんだ」イン!

パンパンになったレジ袋を下げて、みんなでウハウハで帰った。楽しかった。しかし考えてみるとこれは、実家に帰ってきた孫にやることではないか。「なんでも買っていいぞ」「お義父さんすいません…」「いいのいいの、たまのことだから」という魂のやりとりが発生するやつではないか。

ということはつまり、「子を甘やかす」ことによって、「孫を甘やかす」という帰省の概念だけを実現できるということだろう。時間も空間もそのままに「甘やかし」だけ帰省させるのだ。毎日好きなおかずを食卓に並べ、イオンでなんでも好きなものひとつ買ってやり、ティッシュに包んでお小遣いを渡すのだ。夏を甘やかす。それはとてもスイートな思い出になることだろう。ウハウハでコンビニから帰ったあの日も思い出になるといい。

ただ難点がひとつあって、帰省の甘やかしは帰宅によって解除されるのだが、家での甘やかしはリセットしにくい。時間も空間も地続きだから「今日も」「今日も」ってなる。寝る時間がだんだん遅くなる。朝起きてこない。明後日は始業式だぞ。おい、おいってば。

ルンバと慢心

ルンバから多くのことを学んだ一日だった。本当に今さらの今さらなのだけど、我が家に初めてルンバが来たのだ。来たのだと言ってもいきなり買ったわけでなくレンタルなんだけど(ルンバは公式サイトから2週間レンタルができる)。それが今日届き、開封し、充電し、家族全員が見守るなか起動した。

完璧じゃないのだ。動きが。うすうす知ってたけど、あっちに行き、こっちに行かず、またあっちに行く。同じとこに出たり入ったりして、あるいはなかなか出られなくなって、ブイーンと部屋を出たかと思うとまた帰ってくる。クルクル回って、ちょっと頑張って、自分で充電スタンドに戻る。その様子を家族で「あらあら」と見ていた。

「部屋を隅々まで自動で掃除する」という理想は100%叶わない。機械なのに完璧じゃない。それがそこそこの値段する。でもなんか「こういうものだよね」と思わされる。やっぱり部屋に物が多いですよね?とルンバのほうに合わせようと心が動く。人をおおらかり、寛容にするなにかがルンバにはある。ルンバをご利用の方はとっくにご存知だろうけど今さら知ったのだこれを。

自分より小さきものが失敗を繰り返す、そこに愛嬌を感じるのもあるだろう。何度もトライする姿に健気さも覚える。完璧人間より、ちょっと隙があるほうが愛される。でも失敗に「愛嬌」や「健気さ」を感じるのは、こちらに心の余裕があるからだ。「相手は自分を超えてこない」とどこかで思っているからではないか。自信にせよ、慢心にせよ。

たぶんルンバがこの先進化して、部屋も台所も洗面所も隅々まで巡り、障害物を完璧に避け、最短距離で充電スタンドに戻ったら、満足感より寒気がするんじゃないかと思う。簡単に言うと、引く。マジで…ってなる。だが機械の理想としてはその「引く」ゾーンがゴールだろう。AIが人間を超える超えないの議論もそこにあるだろう。超えたときに感じるのは畏怖だろう。

今も部屋の隅でルンバは静かに眠る。明日になったら少し賢くなっていて、その次の日、そのまた次の日とステップを登り、そして…。ルンバを笑って許せるのは今のうちかもしれない。ルンバを許せているのは自分に慢心があるからなのかもしれない。それとももうちょっとグレードの高いやつをレンタルしたらもっとちゃんと掃除してくれるのかなどうなんだ。

10円で買えるものの話

僕の世代で10円で買えるものと言えばチロルチョコで、バレンタインデーにチロルチョコをもらったことがある。祖母から100個入りを。

祖父母の家からちょっと歩いたところにお菓子問屋があったから、散歩で足を伸ばして買ってきたのかもしれない。100個入りってアレである。駄菓子屋の店頭でチロルチョコを売るときの、同じチロルチョコがぎっしり入ったアレ。開封前の箱は直方体で、中にチロルチョコが5個×5個×4段入っている。蓋を真ん中で折り返すと「チロルチョコ」というディスプレイが飛び出すようになっている。もちろん蓋は折り返し、家のリビングでお店に置いてある感じで置いて、毎日ちまちま食べた。嬉しかった。白と黒の包装紙のミルクだったはず。

10円で買えるものも何個も集まると迫力が出る。逆に考えればどんな高価なものでも細かく分ければ10円で買えるものの集合体になるはずだ。たとえば1000万のフェラーリを10円単位に切り刻んだらどれくらいの大きさになるのだろう。チロルチョコより大きいだろうか、小さいのだろうか。

フェラーリだった真っ赤な立方体をかき集めて、箱に詰め直そう。リビングに置いて、毎日ちまちまと1個ずつ取り出し、フェラーリに戻そう。でも1000万円を10円単位に分けるからパーツは100万個になる。100万日かかる。100万日は2740年くらいになる。それくらい続けるには子孫を残し続け、伝承を守ってもらわないといけない。保管のために社みたいな場所もいるだろう。僕が神みたいな存在になっちゃう。どうしよう。というか、そもそも人類は残っているだろうか。

誰もいない地球で赤い立方体が耀く。海が干上がっていて地球は既に青い星ではない。何万光年も先の星から見たそれはキラキラと赤く輝いているかもしれない。でもその輝きひとつには10円の価値しかない。